シニフィアンになじむ

良い按配を追求します

古参のオタクって,今の社会にどのように適応しているの?

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気が付けば,私生活が忙しくなったことや優先順位の変動などがあってアニメを見るということからしばらく離れていましたが,最近また見始めてしまいました。

 

エロマンガ先生」と「冴えない彼女の育て方♭」,「正解するカド」あたりが今期の推し作品です。基本的にストーリーよりキャラ萌えを重視するオタクですが,正解するカドシン・ゴジラに似た面白さがあって珍しくワクワクしながら見ています。

 

オタク向けコンテンツの変化,このあたりの話はきっともう既に色んな人がやっていて,手垢にまみれまくってベタベタな話題だとは思いますが,自分の頭の中の整理も兼ねてまとめておきます。

 

カドは正解するけれど,僕は正解を言うとは限らないので どうぞよしなに。

 

娯楽の極みであるはずのアニメに,気合が必要になった

 今,アニメを見ながら感じるのは,1つの作品にかつてほどハマることができなくなってしまったということ。

 

そして,かつては見たくて見たくて仕方がなかったアニメが,今ではそれなりに気合を入れないと見始めることもなくなってしまったということ。

 

自分が蒐集型タイプのオタクであったことによる諦め

 かつて僕が「School Rumble」や「涼宮ハルヒの憂鬱」,「らき☆すた」,「東方Project」などにハマっていた頃,それらの作品の関連グッズ―原作,円盤,フィギュア,アンソロジーや絵柄がプリントされた食器・文房具などなど―は,(自身の知り得る範囲では)全て集めることができていた。網羅して悦に入ることができた

 

むしろ,全て集めないといけないような気すらしていた。決してそんなことはないのだけれど。可能な限りの関連グッズを蒐集することが,その作品を愛しているという証明のようになっていた。若かったので。

 

オタクにとって,あるグッズに手を出すということは,少なくともそのシリーズは全て集めないとおかしいことだった。

 

涼宮ハルヒ長門有希のフィギュアは持っているのに,朝比奈みくる朝倉涼子鶴屋さんのフィギュアを持っていないのはとても気持ち悪いものなのだ!そんな状態が続くのであればハルヒ長門のフィギュアも持たないほうが良い。そうすれば,「俺はフィギュアは買わない主義」という御都合主義のバリアが,自分のオタ・プライドを守ってくれるから。中途半端に手を出すことは,みすみす自分の甘さを証明する悪手であった。そのように感じていた。バカだったので。

 

でも,ある時それができなくなった。「狼と香辛料」や「とらドラ」,「物語シリーズ」(※)など,そもそもの作品の絶対数と自分の興味の範囲が広がり過ぎてしまったからだ。※作品の時系列はかなり間違えてそうな気がする

 

このとき,自分の中の蒐集オタクとしての何かが崩れた。

 

恵まれていて、かつ要領の良い奴じゃないとオタクは難しい

その後も,半ば無意識に,できるだけ統一感をもたせた蒐集に挑んでいた。特定の出版社の漫画だけは制覇してみようとしてみたり(芳文社),とある月刊誌だけは毎月分揃えようとしてみたり(月刊コミックアライブ)。

 

でも,それさえもできなくなった。お金が足りず,情報が過多だからだ。

 

まともにオタクとして活動するには金が不可欠である。それこそ,本来デートや服装に回すべき金もろとも,作品につぎ込むのが一般的だ(?)。

 

お洒落な服屋でその値段を見ては,「これ買うお金で単行本xx冊は買えるな」という厭らしい変換をしてしまうのがオタクの自然なのだ。そのときオタクは自分の容姿のことなど頭にない。次の巻で,三日月夜空柏崎星奈のどちらが小鷹とイチャコラするのかが気になって仕方がないからだ。

 

そして,特定の出版社の漫画だけでも制覇しようとする試みは,その出版社の力量に打ち砕かれるという皮肉な結果を産んだ。

 

ひだまりスケッチ」,「けいおん!」,「ごちうさ」,「きんモザ」......全部,全部,とにかく全部集めたと思った。自分の部屋は芳文社図書館だと思っていた。でも違った。「恋愛ラボ」も「まどマギ」も芳文社だったのだ!

 

4Dの如く複雑な様相で名作を輩出し続ける芳文社様の情報量に,自分の情報収集力では敵うことができなかったのだ。もう、何を信じればいいのかわからなくなった。(芳文社を信じろ)

 

根深い謎のプライドが,オタク活動から自分を遠ざけた

昔に比べて,今は作品の数もジャンルもとにかく増えた。

ニコニコ動画の産みの親・川上量生は自身の著書で

 

オープンになるほど多様性は失われていく 

 

という旨の主張をしている。このように,そのことが良いのか悪いのかは議論があるところだが,少なくとも1人のオタクを疲弊させるには十分過ぎる勢いがあった。

 

その勢いに乗れるほど,オタクには余裕がなかった。

大きなサイズの写真や動画のやり取りが当たり前になったこの世の中を,512MBのUSBを持ったまま渡り歩くような無理がそこにはあった。人間,限界がある。

 

アニメを見ることは,その世界観にどっぷりと浸かる営みのことを指していたオタクにとって,毎期の膨大な量の作品の視聴は,なかなか気合の要ることなのだ。

 

そして結局は,あまり深い考察などには至ることができないまま,美少女が可愛いシーンで小躍りするだけのオタクが完成した。

 

オタクコンテンツはみんなのコンテンツになった

オタクコンテンツの良い感じのアングラ感はもはやなくなった

僕(1994年生)が中高生の頃は,少なくとも自分の周囲では,オタクといえば何となく恥ずかしいもの,隠すべきもの,避けられるもの という空気があった。

 

でも今は違う。

もし昔であれば「なんでお前が??」と思うような人でも普通にアニメを見ているし,それを恥じることなく,ときには誇らしげに語っている。

 

ここでおかしなことが起こっている。

これは,かつての自分が望んだ世界のはずだったのだ。それは,自分の好きな作品を,同じ作品が好きな者同士で語り合いたいというもの。

 

かつては,オタクと呼ばれる人は数が少なかった。自分の好きな作品を,誰かと語り合いたいが,周囲にそんな気の合う人はいなかった。そういった環境が,オタクにインターネットの海を彷徨わせることになった。

 

ある者は2ちゃんねるへ,ある者は個人ブログへ,ある者は同人作品へ......多くのオタクは顔も知らない「同志」を探しに彷徨うことになった。

 

そこで出会えた人々は,まさに運命と言ってしまっても過言ではなかった。というか運命だった。私がその時出逢った人たちの多くは,そのプラットホームは変わったとしても引き続き交流があり,「なんかちょっと特別な人」である。

 

その何人かは未だに会ったことすらないのに。

 

その日,人類は思い出した。オタクになってしまった経緯を

 

―とにかく,それほどオタクという仲間は貴重で,特別な存在だった。

今では特にそんなことはない。理系大学で適当に石を投げればオタクに当たるだろう。それほど,オタクは ありふれた存在になった。

 

じゃあ,そのような世の中になって,自分の「同志」が簡単に見つかるようになったこの社会で,いわゆる古参のオタクはやっと望みが叶ったと生き生きしているだろうか。

 

その多くは,Noではないだろうか。

 

なぜなら,古参のオタクの多くはコミュニケーションが苦手だからだ。どう見ても非オタク風なニュータイプなオタクとは生きてきた世界が違うからだ。

 

オタクが仮想敵にしていたリア充が,メールの件名に「Re:」が重なることで喜びに満ちていた傍らで,オタクは2ちゃんねるへの書き込みにレスが付いたことに感激し,pixivで神絵師が新作を投稿してくれることを待ち望み,自分が帰るチャット部屋があることに安堵し,ニコニコ動画弾幕で得られる安っぽいクルーヴ感に浸っていた。

 

そんなオタクに,ニュータイプオタクと語らうことはハードルがあまりにも高かった。(もちろん,ニュータイプとは雑誌を指しているのではない)

 

よし語ろう!―可愛い。尊い。次の言葉が見つからない

オタ的内容を話すことができる機会そのものは増えたが,いざ,語るその場面に置かれると,オタクは語彙を失くした。可愛い。尊い。その言葉が何よりの賛辞で,全てを物語ってくれるような感覚に陥った。

 

そう,薄々気付いていたことだった。語彙をなくしたというよりは,そもそもそんな語彙力は持ち合わせていなかったのだ!圧倒的インプット量に対してあまりにも不釣り合いなアウトプット機会の少なさゆえに,オタクはこと会話において,自らの世界観を表現するテクニックを持ち合わせていなかったのだ......。

 

そして,オタク向けコンテンツはニュータイプオタクのコミュニケーションツールになった。

 

 

幸せになるためにアニメを見る

 

アニメを見る目的,ひいては,人生の目的は幸せになることだと言ってしまっても差し支えないだろう。(じゃあ幸せとは何かという問題は,哲学の永遠のテーマなのでここでは示さない)

 

でも,ちょっと前までの自分は,将来のためとか,研究のためとか,そういったことを理由にしてアニメから離れていた。

 

何らかの努力の先に,大きな幸せがあると信じているからだろう。将来の幸せとかいう不確定なものには憧れるくせに,今すぐにでも手に入る「アニメを見る」という現実的な幸せのことは無碍にしているのだ。

 

多分,幸せになるために(その先にどれだけ大きな幸せがあろうとも)あまりに長い期間苦しむのは最適ではないだろう。

 

幸せそうな人は大抵コンスタントに幸せだ。自分は幸福だと思えているその精神状態がまた次の幸せを呼び込むことは,科学的に証明できなくても,体感として妥当性のあることだろう。

 

アニメは即効性のある幸せだ。そこにはオタクの理想の美少女が,腐女子の理想の美少年やおじ様が描かれているのだから。

 

その他の幸福のための手段と上手く折り合いをつけて付き合っていくことが大事だと,10年以上もオタクをやってきてようやく気付いた事だった。

 

 

 

 

 

またあの頃のように熱狂できるだろうか。

 

昔は良かったなんていうのは現在に馴染めてないからだろうか。

 

オタクは,変わってしまったサーカムスタンスにどのように適応しているのだろうか。

 

古参のオタクはこの文章を読んでくれているだろうか。懐古厨だなんだと言われるけどさ,やっぱり,昔って良かったよね? 

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