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「所有者のない不動産は国庫に帰属する」のになぜ空き家空き地問題がここまで深刻化するのか

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 おはようございます。

建築系の学生でなくても現在の日本で空き家・空き地問題が深刻化しているという事実は多くの方が知っていると思うし、知らないのであれば知っておいたほうが何かと良いと思うので最初に記しておきます。(社会の構造的な課題は国民の理解がなければにっちもさっちも行かない場合がほとんど)

 

履修している講義でこのような問題について考える機会があったので覚書も兼ねて書いていきます。現代社会の未解決問題なので、ぜひ頭のすみっこに入れておいてみてください。

 

以下の内容は吉原祥子著『人口減少時代の土地問題』および大学院の同期が作成した授業での発表PPTをめいいっぱい参考にしています。

 

活用したいけど、土地の所有者がわからない

空き家・空き地問題が発生する大きな要因の1つに「土地所有者がわからない」というものがあります。誰の土地かわからないので、国も個人もその土地を活用できなくなってしまい、結果、その場所が空き家・空き地になってしまいます。

 

わからないんだけど、一見誰も使ってなさそうに見えても(おそらくは)どこかの誰かの財産であるわけだから、他人が勝手に活用するわけにはいきません

 

その土地を使うには、不動産登記簿上の全相続人を特定し、同意を得なければなりません。これは、非常に難しいです。役所に行って分厚い紙束をめくれば解決~というわけにはいかず、以下のような複雑な事情が渦を巻いています。

 

 

特に困ることもないので、相続の登記を済ませていない

んです。

「今まで、この土地は○○のモノだったけど、色んな理由で××のモノになります~」ということを正式に完了させる儀式を、済ませていないということが増えています。

 

いわゆる、相続未登記問題です。

相続の登記をきちんと済ませていないので、土地を活用しようとして不動産登記簿を調べたところで、全ての相続人を特定することができなくなっています。もちろん、そのような土地は活用できません。

 

大切な財産なのに、相続の登記を済ませないなんて横着だなぁって思いますよね。でも、別にいいんです。相続登記は別にしなくてもいいよ、と、そういう決まりになっています。

 

相続登記は義務ではなく「任意」である

 相続登記は義務ではありません

そうすると、当然登記を済ませない人も出てきます。

 

だって、メンドウだし、普通に生活してたら何も困らないし、諸手続きにお金もかかるから。

最近は、とくに地方や森林農地などでは地価が下がる傾向にありますから、手続きのコストが資産価値を上回り、損をしてしまうなんてことがあるみたいです。

 

今どき、登記をちゃんと済ませるのは、土地を売ることになったり、土地に抵当権を設定することになったときくらいでしょうか。もちろん単純にしっかり者で登記を済ませる人もいるとは思いますが...

 

そもそも、そんなこと知らない

所有者不明化という問題は、目に見えにくい。だから、問題の共有もできない。個人の(しかも莫大な)財産であるため、行政も足踏みしている。

 

そもそも、義務教育では教わらないし、高等教育機関でも、法学とかの分野じゃないとなかなか知る機会がないし、この問題の存在すらも知らないんじゃないかと思います。(僕も、相続っていうものがあるな~ってことは民法を少し齧ったことがあるので知っていましたが、このような問題はあまり知りませんでした)

 

知らないなら相続登記が済んでいなくたって、仕方ないよね(よくない)

 

じゃあ、相続登記を義務化すればいいじゃないか

 という声が挙がるのが当然の流れですが、現状、そうなっていないのにはそれなりの理由があるっぽいです。

 

まず、法改正が容易ではない

ということくらいは中学公民か何かで習ったような気がしますが、

この登記、不動産登記法民法の手続法で、権利の登記は第三者対抗の為にあると言ってしまっていいでしょう。(詳しくないのでダメだったら教えてください。)そして、相続は所有者の死亡によって発生するため、登記を申請しなくても自己の所有権が失われることはありません。

 

つまり、その大変さと比べて、登記を行うインセンティブが極めて低い

こうなると実現は法改正は難しくなります。

 

そして、改正したところで実効性はあるのか?

どうにかこうにかして、相続登記が義務化しました。

これで、全国民が登記を済ませ、全国の土地の所有者が明らかになり、

無主の不動産が洗い出され、万事解決!と、なるでしょうか?

う~ん......

 

 

「所有者のない不動産は国庫に帰属する」のになんで深刻化したのか

民法によると、所有者のない不動産は国庫に帰属する、とあるのに

なぜここまでめちゃくちゃになってしまったのか。

 

どうやら、「 相続の放棄 → 国のものに 」という単純なものではないそうです。

「国庫に帰属」させるには、以下のような手続きが必要とされています。

 

相続財産管理制度による手続きが必要である。これは、利害関係者が裁判所に対して相続財産管理人の選任の申し立てを行う。選ばれた相続財産管理人は、財産を売却し、債務などを清算したうえで、換価金の残額を国庫に納付するという手続きである。(吉原祥子『人口減少時代の土地問題』.中公新書 より)

 

 

つまり、こうした手続き(利害関係者から相続財産管理人の申し立て)がされなければ、その土地は、だれも扱わないんだけど、だれも扱うこともできない、ぽっかりと空いてしまっているだけの土地になってしまうということです。

 

そして、そんな土地が急増しているということです。

 

 

なかなか見つからない解決の糸口

と、いうわけで次回の大学院の講義でワークショップを行い、

案を出し合うということをするそうです。

 

なんとなく、専門である建築基準法都市計画法の内だけでは、かなり難しいな~って思っているけど......どうしよっかな

 

もう、書けることがあまりないのでここで終わりにします。

最後まで読んでくださりありがとうございました。また何か書きます

 

↓ 記事を書く前に書いたメモです

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本好きのための暇つぶし:福井県立図書館 覚え違いタイトル集

Twitter中に大学院の講義を受けていたところ、フォロワーの梓常葉くん(@AzusaTokoha)が以下のようなTweetをしていた。

 

ここでの「さっきRTした」とある元ツイートがおそらくこちら。

 

リンク先の福井県立図書館のHPには、当ページを以下のように説明しています。

本のタイトルがよくわからない、うろおぼえ。 図書館のカウンターで出会った覚え違いしやすいタイトル、著者名などをリストにしました。 

 

 借りたい本があるけれど、正確なタイトルがわからない。曖昧に覚えている。そんな本の情報が一覧になっているのですが、外から見るとこれが「お目当ての本を探す」というより、大喜利のようなものになっていて、暇つぶしサイトとして非常に優れたものになっているので紹介しました。

 

 読んだことはなくてもタイトルを知っているだけで笑えるので、ぜひ見てみてください。

 覚え違いタイトル集|図書館 - 福井県立図書館・文書館・文学館

 

 

私が好きな覚え違い

 

No.74  村上春樹『そば屋再襲撃』▶ 『パン屋再襲撃村上春樹 

 

No.84  自民党の300日 ▶ 『自民崩壊の300日』原作からはかけ離れた日常系の予感

 

No.143  七人のおうさま。▶ 『王さまと九人のきょうだい』新しい国家の形かな?

 

No.198  司馬遼太郎の「おーい龍馬」▶『龍馬がゆく』

 

No.327 ウサギのできそこないが2匹でてくる絵本 ▶『ぐりとぐらワードが強い

 

No.479 「おい桐島、お前部活やめるのか?」▶『桐島、部活やめるってよ噂話ではなく,本人に直接聞いていくSTYLE

 

No.506 村上春樹「とんでもなくクリスタル」▶『限りなく透明に近いブルー村上龍

 

No.605 「昔の女性は力加減ができていた」▶『昔の女性はできていた』(((゚Д゚))) 

 

No.622 「人生が片付くときめきの魔法」▶『人生がときめく片づけの魔法』アナグラムとしての完成度が非常に高い

 

No.626 うらたもり ▶『ブラタモリ

 

No.652「咲かれたところで開きなさい」▶『置かれた場所で咲きなさい』何が?何を?

 

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古参のオタクって,今の社会にどのように適応しているの?

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気が付けば,私生活が忙しくなったことや優先順位の変動などがあってアニメを見るということからしばらく離れていましたが,最近また見始めてしまいました。

 

エロマンガ先生」と「冴えない彼女の育て方♭」,「正解するカド」あたりが今期の推し作品です。基本的にストーリーよりキャラ萌えを重視するオタクですが,正解するカドシン・ゴジラに似た面白さがあって珍しくワクワクしながら見ています。

 

オタク向けコンテンツの変化,このあたりの話はきっともう既に色んな人がやっていて,手垢にまみれまくってベタベタな話題だとは思いますが,自分の頭の中の整理も兼ねてまとめておきます。

 

カドは正解するけれど,僕は正解を言うとは限らないので どうぞよしなに。

 

娯楽の極みであるはずのアニメに,気合が必要になった

 今,アニメを見ながら感じるのは,1つの作品にかつてほどハマることができなくなってしまったということ。

 

そして,かつては見たくて見たくて仕方がなかったアニメが,今ではそれなりに気合を入れないと見始めることもなくなってしまったということ。

 

自分が蒐集型タイプのオタクであったことによる諦め

 かつて僕が「School Rumble」や「涼宮ハルヒの憂鬱」,「らき☆すた」,「東方Project」などにハマっていた頃,それらの作品の関連グッズ―原作,円盤,フィギュア,アンソロジーや絵柄がプリントされた食器・文房具などなど―は,(自身の知り得る範囲では)全て集めることができていた。網羅して悦に入ることができた

 

むしろ,全て集めないといけないような気すらしていた。決してそんなことはないのだけれど。可能な限りの関連グッズを蒐集することが,その作品を愛しているという証明のようになっていた。若かったので。

 

オタクにとって,あるグッズに手を出すということは,少なくともそのシリーズは全て集めないとおかしいことだった。

 

涼宮ハルヒ長門有希のフィギュアは持っているのに,朝比奈みくる朝倉涼子鶴屋さんのフィギュアを持っていないのはとても気持ち悪いものなのだ!そんな状態が続くのであればハルヒ長門のフィギュアも持たないほうが良い。そうすれば,「俺はフィギュアは買わない主義」という御都合主義のバリアが,自分のオタ・プライドを守ってくれるから。中途半端に手を出すことは,みすみす自分の甘さを証明する悪手であった。そのように感じていた。バカだったので。

 

でも,ある時それができなくなった。「狼と香辛料」や「とらドラ」,「物語シリーズ」(※)など,そもそもの作品の絶対数と自分の興味の範囲が広がり過ぎてしまったからだ。※作品の時系列はかなり間違えてそうな気がする

 

このとき,自分の中の蒐集オタクとしての何かが崩れた。

 

恵まれていて、かつ要領の良い奴じゃないとオタクは難しい

その後も,半ば無意識に,できるだけ統一感をもたせた蒐集に挑んでいた。特定の出版社の漫画だけは制覇してみようとしてみたり(芳文社),とある月刊誌だけは毎月分揃えようとしてみたり(月刊コミックアライブ)。

 

でも,それさえもできなくなった。お金が足りず,情報が過多だからだ。

 

まともにオタクとして活動するには金が不可欠である。それこそ,本来デートや服装に回すべき金もろとも,作品につぎ込むのが一般的だ(?)。

 

お洒落な服屋でその値段を見ては,「これ買うお金で単行本xx冊は買えるな」という厭らしい変換をしてしまうのがオタクの自然なのだ。そのときオタクは自分の容姿のことなど頭にない。次の巻で,三日月夜空柏崎星奈のどちらが小鷹とイチャコラするのかが気になって仕方がないからだ。

 

そして,特定の出版社の漫画だけでも制覇しようとする試みは,その出版社の力量に打ち砕かれるという皮肉な結果を産んだ。

 

ひだまりスケッチ」,「けいおん!」,「ごちうさ」,「きんモザ」......全部,全部,とにかく全部集めたと思った。自分の部屋は芳文社図書館だと思っていた。でも違った。「恋愛ラボ」も「まどマギ」も芳文社だったのだ!

 

4Dの如く複雑な様相で名作を輩出し続ける芳文社様の情報量に,自分の情報収集力では敵うことができなかったのだ。もう、何を信じればいいのかわからなくなった。(芳文社を信じろ)

 

根深い謎のプライドが,オタク活動から自分を遠ざけた

昔に比べて,今は作品の数もジャンルもとにかく増えた。

ニコニコ動画の産みの親・川上量生は自身の著書で

 

オープンになるほど多様性は失われていく 

 

という旨の主張をしている。このように,そのことが良いのか悪いのかは議論があるところだが,少なくとも1人のオタクを疲弊させるには十分過ぎる勢いがあった。

 

その勢いに乗れるほど,オタクには余裕がなかった。

大きなサイズの写真や動画のやり取りが当たり前になったこの世の中を,512MBのUSBを持ったまま渡り歩くような無理がそこにはあった。人間,限界がある。

 

アニメを見ることは,その世界観にどっぷりと浸かる営みのことを指していたオタクにとって,毎期の膨大な量の作品の視聴は,なかなか気合の要ることなのだ。

 

そして結局は,あまり深い考察などには至ることができないまま,美少女が可愛いシーンで小躍りするだけのオタクが完成した。

 

オタクコンテンツはみんなのコンテンツになった

オタクコンテンツの良い感じのアングラ感はもはやなくなった

僕(1994年生)が中高生の頃は,少なくとも自分の周囲では,オタクといえば何となく恥ずかしいもの,隠すべきもの,避けられるもの という空気があった。

 

でも今は違う。

もし昔であれば「なんでお前が??」と思うような人でも普通にアニメを見ているし,それを恥じることなく,ときには誇らしげに語っている。

 

ここでおかしなことが起こっている。

これは,かつての自分が望んだ世界のはずだったのだ。それは,自分の好きな作品を,同じ作品が好きな者同士で語り合いたいというもの。

 

かつては,オタクと呼ばれる人は数が少なかった。自分の好きな作品を,誰かと語り合いたいが,周囲にそんな気の合う人はいなかった。そういった環境が,オタクにインターネットの海を彷徨わせることになった。

 

ある者は2ちゃんねるへ,ある者は個人ブログへ,ある者は同人作品へ......多くのオタクは顔も知らない「同志」を探しに彷徨うことになった。

 

そこで出会えた人々は,まさに運命と言ってしまっても過言ではなかった。というか運命だった。私がその時出逢った人たちの多くは,そのプラットホームは変わったとしても引き続き交流があり,「なんかちょっと特別な人」である。

 

その何人かは未だに会ったことすらないのに。

 

その日,人類は思い出した。オタクになってしまった経緯を

 

―とにかく,それほどオタクという仲間は貴重で,特別な存在だった。

今では特にそんなことはない。理系大学で適当に石を投げればオタクに当たるだろう。それほど,オタクは ありふれた存在になった。

 

じゃあ,そのような世の中になって,自分の「同志」が簡単に見つかるようになったこの社会で,いわゆる古参のオタクはやっと望みが叶ったと生き生きしているだろうか。

 

その多くは,Noではないだろうか。

 

なぜなら,古参のオタクの多くはコミュニケーションが苦手だからだ。どう見ても非オタク風なニュータイプなオタクとは生きてきた世界が違うからだ。

 

オタクが仮想敵にしていたリア充が,メールの件名に「Re:」が重なることで喜びに満ちていた傍らで,オタクは2ちゃんねるへの書き込みにレスが付いたことに感激し,pixivで神絵師が新作を投稿してくれることを待ち望み,自分が帰るチャット部屋があることに安堵し,ニコニコ動画弾幕で得られる安っぽいクルーヴ感に浸っていた。

 

そんなオタクに,ニュータイプオタクと語らうことはハードルがあまりにも高かった。(もちろん,ニュータイプとは雑誌を指しているのではない)

 

よし語ろう!―可愛い。尊い。次の言葉が見つからない

オタ的内容を話すことができる機会そのものは増えたが,いざ,語るその場面に置かれると,オタクは語彙を失くした。可愛い。尊い。その言葉が何よりの賛辞で,全てを物語ってくれるような感覚に陥った。

 

そう,薄々気付いていたことだった。語彙をなくしたというよりは,そもそもそんな語彙力は持ち合わせていなかったのだ!圧倒的インプット量に対してあまりにも不釣り合いなアウトプット機会の少なさゆえに,オタクはこと会話において,自らの世界観を表現するテクニックを持ち合わせていなかったのだ......。

 

そして,オタク向けコンテンツはニュータイプオタクのコミュニケーションツールになった。

 

 

幸せになるためにアニメを見る

 

アニメを見る目的,ひいては,人生の目的は幸せになることだと言ってしまっても差し支えないだろう。(じゃあ幸せとは何かという問題は,哲学の永遠のテーマなのでここでは示さない)

 

でも,ちょっと前までの自分は,将来のためとか,研究のためとか,そういったことを理由にしてアニメから離れていた。

 

何らかの努力の先に,大きな幸せがあると信じているからだろう。将来の幸せとかいう不確定なものには憧れるくせに,今すぐにでも手に入る「アニメを見る」という現実的な幸せのことは無碍にしているのだ。

 

多分,幸せになるために(その先にどれだけ大きな幸せがあろうとも)あまりに長い期間苦しむのは最適ではないだろう。

 

幸せそうな人は大抵コンスタントに幸せだ。自分は幸福だと思えているその精神状態がまた次の幸せを呼び込むことは,科学的に証明できなくても,体感として妥当性のあることだろう。

 

アニメは即効性のある幸せだ。そこにはオタクの理想の美少女が,腐女子の理想の美少年やおじ様が描かれているのだから。

 

その他の幸福のための手段と上手く折り合いをつけて付き合っていくことが大事だと,10年以上もオタクをやってきてようやく気付いた事だった。

 

 

 

 

 

またあの頃のように熱狂できるだろうか。

 

昔は良かったなんていうのは現在に馴染めてないからだろうか。

 

オタクは,変わってしまったサーカムスタンスにどのように適応しているのだろうか。

 

古参のオタクはこの文章を読んでくれているだろうか。懐古厨だなんだと言われるけどさ,やっぱり,昔って良かったよね? 

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