シニフィアンになじむ

良い按配を追求します / 全部ポエムです

「大人になる」を失敗する

今年もアドベントカレンダーに誘ってもらえたのでそこで2つくらい記事を投稿することにしました。

 

ちゃんとまとまった記事だけを投稿しようと考えていたけど、量質転化に期待してまずは記事を量産することに重きを置こうと思う。

 

大人になるためのリベラルアーツ

(ほぼ)毎週やってる輪読会で『大人になるためのリベラルアーツ』という本を友人と読みました。全てを読んだわけではなく、特に気になる章だけ。

大人になるためのリベラルアーツ: 思考演習12題
 

 輪読会で話した内容は本エントリーでは書かないけど、毎週読んでてずっと「大人になる」について思うところがあった。じゃあ大人にならないっていうのはどういう状態か?

「大人になる」を失敗する2つの方法(もう手遅れ)

 ①鏡像段階の通過をしくじる

人間は自分を自分と認識せずに生まれてくる。自分の胴体手脚を自分の身体として統一的に認識することができない。これは「寸断された身体」などと呼ばれている。

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これは僕が今(2018-11-20 4:38)30秒で描いた絵です。

なんか幼児ってこういう絵を描くような気がする。頭から直接手脚が生えている。幼児といえど、自分の胴体を見たことが一度もないなんてことはないと思う。

 

僕は、これが「寸断された身体」だと思う。知らんけど。

つまり、自分の身体を頭-胴体-手脚...のようにひと繋がりのものとして認識できていない。

 

でも、そのうち画期的な方法で自分の姿を認識することになる。鏡。そして、鏡に写った自分の姿を見て母親*1に「これがあなたよ」と教えてもらうことで、あるいは、鏡に写った自分を自分だと認識するという転機が突然訪れることで自分の身体を初めて統一されたものとして認識する。

 

人間は鏡を見ないと自分の統一された身体を見ることができない。*2

だから、人間は鏡を通して初めて自分自身を把握する。ああ、これが自分なんだというその体験は、とてつもない安堵と喜びをもたらす。きっと無意識的にだろうけど。*3

 

鏡を用いて自分を認識している以上、人間は自分ではないものを通して自分を認識していることになる。(鏡に写った自分は、像であり、自分ではない)。自分の起源が自分ではないものに担保されている。その不安定さを手に入れて、人生がリスタートする。

 

この、鏡像段階に失敗すると大人になれない(≒精神病を患う)というのが一般的に理解されている。わかるか?俺はわからん(聡明)。

 

え、長くない?書いててキモッって思った。鏡像段階については、別エントリーでもっと詳しく書きたい。

 

エディプス・コンプレックスの獲得に失敗する

エディプス・コンプレックスについてちゃんと書こうとすると、それこそ僕が精神病なんじゃないか?と思われる可能性があるのでとてつもなくぼんやりと書くと、世界には理屈や理解を遥かに超えた理不尽な存在があり、その理不尽なものの存在をぜんぶまとめて承認せよ。といったあたりか。

 

これを(表面的にではなく)学び、知ることにしくじると(以下省略)。

 

気が向いたらエディプス・コンプレックスについても詳しく書きたい。

 

 

はぁ、文章を書く流れが途絶えたから今回はこれでおしまい

大人になれない僕らの 強がりをひとつ聞いてくれ~

おわり~

 

 

*1:こういう分野での母親や父親は、母的、父的存在のものを指していることが多い。それは、人ですらないことも普通にある

*2:しかも鏡を用いたとしても自分の姿の全てを見ることはできない

*3:これは鏡じゃなくて写真でもいいのかな?でもまぁ、おそらくインタラクティブ性が大事なんだと思う